vol.12 — ハワイ王朝の王たち その2 〜ルナリロ王からリリウオカラニ女王へ〜 —
メリーモナーク、そしてアロハ・オエの物語。

◎ルナリロ王(1873~1874)
カメハメハ5世が後継者を指名することなくこの世を去ったため、
王朝の王位は大酋長の家系から選挙によって選出することになりました。
選ばれたのは、カメハメハ1世の異母兄弟にあたるカライママフの孫、
ウィリアム・チャールズ・ルナリロでした。
しかし身体の弱かったルナリロは在位わずか1年足らずで肺結核にかかってしまい、
この世を去りました。
ルナリロは王でありながら、常に公平・公正で、
誰に対しても平等に耳を傾けた人物で、「人民の王」と親しまれました。
ルナリロの亡骸は、人民の中にいたいとの遺志により、
王族の霊廟ではなくカワイアハオ教会(※1)に眠っています。
◎カラカウア王(1874~1891)
ルナリロ王も、カメハメハ5世と同じように後継者を選ばずに他界してしまったために、
王国司法部は再度選挙により国王を選出することとなりました。
王の候補として挙がったのが、デビッド・カラカウアと、
カメハメハ4世の妻だったエマ王妃でした。
勝利したのは、デビッド・カラカウアでしたが、
この選挙は最も汚い選挙と言われ、エマ王妃派が暴動を起こすという
混乱した一幕も見られました。
とはいえ、カラカウア王は“メリー・モナーク”と称され、
1881年、世界で初めて世界一周をした王として有名です。
「太平洋連合構想」という独自のアイデアを掲げ、
日本に訪れた最初の国王としても知られています。
官約移民の要請をしたり、時の明治天皇に直接謁見し、
姪のリリウオカラニ王女と山階宮親王の結婚を提案したりしています。
帰国後はハワイのナショナリズム復興のために、
王家に口承で伝わっていた創世神話「クムリポ」の編纂し一般に公開、
禁止されていたフラの復活、カフナの復権など、
古代のハワイ文化を守る一方、西洋文化や海外で見つけた新しいものを取り入れ、
イオラニ宮殿(※2)を建築するなど革新的な人物でした。
政治的には親米家で、1875年の条約によりアメリカとの間の関税が撤廃され、
サトウキビをはじめとするプランテーション産業が隆盛を極めますが、
ハワイをアメリカの属国にしたいと希望するアメリカの勢力はいっそう強くなり、
晩年には議会はアメリカ人により牛耳られるようになってしまいました。
◎リリウオカラニ女王(1891~1893)
カラカウア王の死後、後継者として指名を受けていたリリウオカラニが王位に就きます。
アメリカ人の勢力が強くなった議会に反発し、ハワイの王権を取り戻すべく
新憲法を発布し、施行しますが、アメリカ人実業家たちの反発を食らい、
イオラニ宮殿に幽閉されることとなります。
これによりリリウオカラニの王権は事実上なくなり、
ハワイ王朝は終止符を打つことになりました。
幽閉されたリリウオカラニは議会の許可を得てワシントンへ渡米。
「ハワイ女王の手によるハワイの物語」を出版し、王権の正当性を訴えました。
さらに先代の王であり、兄であるカラカウアが編纂した創世神話「クムリポ」を英訳し、
世界にその名を知らしめました。
母国ハワイを慕う心情を歌った「アロア・オエ」を作詞するなど、
才女であった彼女は最期までハワイを愛し続け、
ハワイ文化の貢献に大きな一石を投じました。
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※1 カワイアハオ教会
1842年にニューイングランドの宣教師によって創設されたオアフ島最古の教会。
カワイアハオとは「ハオ王女の水」を意味し、教会の庭には泉の跡が残っています。
「人民の王」であるルナリロが眠る教会としても有名です。
※2 イオラニ宮殿
1882年、カラカウア王により建築され、彼の死後リリウオカラニ女王が
1893年に退位させられるまで暮らしていた公邸。
当時はイギリスのバッキンガム宮殿にさえなかった電話設備があり、
巨額の税を投入して建築したアメリカ合衆国で唯一の宮殿。
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【Profile】
千田 育(せんだ やすし)
ALOHA ‘AINA CONNECTIONS主宰 。
『癒しのパワースポット ハワイ』(アールズ出版刊)シリーズ4冊を執筆。
モノで満足するハワイより、心に深く刻まれるハワイの魅力、自然からの学びや
ハワイアンの精神性などを人々に伝えるアロハ・コネクターとして活動中。●ALOHA ‘AINA CONNECTIONS
https://www.facebook.com/AlohaAinaConnections